「奈帆の言葉に返せる言葉はなかった。また専業主婦か、と鈴子は思う。なぜいつも仕事をしていない女は同じ女から標的にされるのか。そもそも自分が生まれてきた時代がいいか悪いかなんて考えたこともなかった。それが奈帆の言うようないい時代に生まれてきたという事の証なんだろうか。」(P.18) 鈴子
「みつ子の時代になっても、まだ女の物書きは希少な存在だった。もの書きになれば、皆が自分を大事にしてくれる。女という性に生まれただけで蔑まれることもない。」(P.53) 登紀子
「家族の歴史が今も残っている、というのは、それを記憶している人がいて、そのうちの誰かがそのときのことを書き残しているか、もしくはその記憶を持った子孫が記憶を抱えて生き延びていなければならないのよ。どちらもなければ家族の記憶は続かないの。途切れてしまうのよ。」(P.57) 登紀子
「戦争の大変さって私の両親は早くどこかで消したい記憶だったんじゃないかな。」(P.59) 鈴子
「登紀子さんのお母さんやおばあさんが文章にして書き留めた、ってことは、やっぱり残したかった記憶だからよね。それに(中略)あの時代に女性でありながらも文章が書ける、それでお金がもらえるってことはやっぱり登紀子さんのお家みたいな生まれでないと無理なことよね。」(P.60) 鈴子
「同世代の人間の多くは、プロレタリア革命を目指した新左翼の学生だった。登紀子の親しい大学生にも、運動に身を投じている人間が少なくはなかった。けれど、当時の大学進学率は2割にも満たなかった。世の中の頂点に立つようなエリートが革命を叫ぶことにも違和感があった。
(中略)
そこから距離を置かせたのは、自分の恵まれた生まれ、そして育ちだった。それがどんなに特別なことかは幼い頃から感じていた。学生運動は、60年代から70年代の初頭まで、日本という国を騒がせていたが、自分はそこに身を投じる権利などない、と登紀子は考えるようになっていた。ブルジョワ、搾取、階級闘争と言った言葉を聞くたびに責められているような気になった。自分は左翼が糾弾するようなプチブルなのだという自覚は、学生運動を新聞で、テレビで、街頭で目の当たりにするたびに強くなっていった。登紀子の祖母も、そして母も抱かなかった。その思いは、ねじ曲がり、
いつしか、自分の生まれや育ち、家庭のあり方が恥ずかしい、と思うことさえあった。だからこそ、自分とは正反対の男と恋に落ちた。」(P.120) 登紀子
「団地ってなにやらすごいとこね」登紀子がそう言うと、妙子はふふっと静かに笑う。「夫は仕事、女は家事育児、産めよ増やせよって、誰だかわからないけど、上からそういう場所を与えられているみたい。」(P.263)登紀子
「三島にも学生たちにも、そして、女性として仕事を持ち活躍する妙子や登紀子にも、信じている何かがあるのだ。私が信じているものとはいったいなんだろう。」(P.292) 鈴子
「これからは女の時代だ。女が主体的に生きて活躍する時代だ。世の中は確実に良い方向に向かっている。光の当たっている場所だけを見れば、世の中は光に満ちあふれている。」(P.306) 登紀子
「鈴子は戦争終わった年に生まれたので、戦争中に『天皇陛下万歳』と叫んでいた人たちのほんとうの気持ちもわからない。それなのに、なぜだか乱暴に扱ってはいけないし、侮辱する気持ちを言葉にしてはいけないと思ってしまう。ふと鈴子は思う。そんなふうに思い込んでいる自分とはなんなのだろう、と。裕介に対する気持ちにも近い自分や家族を養ってくれる。夫に自分の意見をストレートにぶつけてはいけない。そういう頑固な思い込みが自分の中にはある。いつ、それが、自分のなかに刷り込まれたのだろう。力の不均衡。なぜだか鈴子の頭のなかにはそんな言葉が浮かぶ。」(P.348) 鈴子
「自由にやんなさい、って言われても、よくわかんないんだもん。自由って言葉がなんだかふわふわしてて、何が自由なのか、何が不自由なのかもよくわかんないし……。そんなこと言うなら、お母さんこそ自由に生きればいいじゃん。」(P.351) 満奈実
「つらさや苦労が絵を描かせる火種になるなど、ほんの短い間のことだ。大変なのはその先だ。モチベーションがゼロになってからの闘いの方が長いのだ。そう思いながら、妙子は登紀子に対してずっと思ってきたことを、また思ってしまう。この人は何もわかっていない。私が経験してきた子供時代のつらさや苦労など、登紀子さんは頭のなかで想像するだけだろう。」(P.365) 妙子
「お金さえあればなんでも買える。なんでもできる。日本人はそう思い始めているのではないか。そして、自分もその欲望に、小さな氷をつけた犯人の1人なのではないか。44年前、この国は戦争に負けた。けれど、たった40数年で世界一の金持ちになろうとしている。日本人が今まで行儀よく隠していた欲望が、あらわになっていく様に、得体の知れない心地悪さを感じてしまう。」(P.375) 登紀子